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母校 社高校野球部 悲願の優勝!!

社長ブログ

2022/07/30

母校 社高校野球部 悲願の優勝!!

本日7月28日、母校社高校野球部が兵庫県大会で悲願の優勝を果たした。地元ケーブルテレビで毎晩放送されていたから三回戦から見始めた。「このチームなら優勝いけるかも」と思った。

私は社高校時代はピッチャーだったので、このチームの投手層の厚さに驚いた。エース級の投手が4人いる。又守備力が鍛え抜かれている(社の特徴)。鍛え抜かれていると言ったのは誰でもピンチでは浮足立ちエラーをする。しかしどれほど鍛え抜かれているかはその後に違いが出る。この度の決勝戦でも度重なるピンチでミスはしてもその後処理が見事であった。そしてショート福谷は阪神の近本を同郷の先輩として中学、高校と追いかけているので底知れない潜在力を感じた。プライドとは一人の人間をここまで強く支えるのかと改めて思った。

今日久しぶりに高校野球を観戦しながら、47年前の私を父と母が観ながらハラハラドキドキしたんだな。と思うと少し涙が出てきた。昨年父が他界した。私が一年生の時、社高校はベスト8になり、二年生の時ベスト4になったこれは社高校初の快挙であり、サンテレビで放映された。今の社高校のユニフォームデザインはこの時に変更した。私達がデザインを決めた。選手父兄会にいた父は地元の丸山刺繍にお願いしたところ気持ち快く無償で作って下さった。
このベスト4という快挙は、私の一つ上の先輩に非常に優秀なピッチャーがいた。高校野球では優秀なピッチャーがいるとかなりの確率で上位に行ける。もちろん野手陣も粒揃いであった。

 

その優秀なピッチャーを含めた3年生6人のレギュラーが抜けた野球部は、おまけに長年社高校野球部を率いた監督(岡本先生)も4強を土産に退任された。
残った私達は、野球経験も監督経験もない若い三浦監督になった。実は三浦先生は私の中学時代の体育教師、私と一緒に滝野中学を卒業して、私と一緒に野球部の顧問、三年生が退陣し、私の時代に新任監督になられた。私の同級生にピッチャーは居なかった。居なかった。と言ったが最初から居なかった訳ではなく地元中学では有名な2人のピッチャーが入部したが練習が厳し過ぎて途中退部したのだ。

 

先程も言ったが高校野球ではピッチャーの影響力は大きい。一つ下に2人ピッチャーいたのだが私が思う気迫を感じなかった。私は思い切って監督に私をピッチャーにして下さい。と申し出た。監督に強引にお願いしたものの困った様子の監督に迷惑はかけられない。先ずはデビュー戦で結果を見せるしかないと思った。結果は上出来!。監督としては実力の無い者をましてあの時代と言えどもピッチャーは皆中学時代もピッチャーだし、ピッチャー経験の無い竹内をよしやって見ろ。とは言えない。結果は、対戦相手も地元ではそれなりに強いチーム(西脇工業)に7回コールド勝ちで、私は14脱三振のデビュー戦を飾った。

 

文句なしのデビュー戦である。誰も反対しなかった(と思っている)。私はピッチャーに転向しただけでなく「背番号1は誰が付ける」と監督がみんなに聞かれたので私は「自分から手を挙げ、私に付けさせてください。」全員に言い切った。と同時に自分にも「この責任は取る」と言い聞かせた。それから、1年後の私達最後の夏に向かって本当の青春(戦い)が始まった。

 

私はバックネットに「めざせ甲子園」を貼ろうと考案し、加えて今から1年間教科書は部室に置いて帰る。そして家まで7キロを毎日走って通学する。要するに全てを野球に打ち込む。日本一になるには誰が聞いても日本一の練習をする。と決めた。
校長先生は、私の通学路沿いに自宅が有ったから良く声をかけてくださり、友達のようだった。真冬に遅刻ギリギリ(実際何度か遅刻したが)に入室すると、私だけ真冬に汗ビショ、真っ白い息がハアーハアーとかなり目立っていた。

 

やっと春が来た。三浦監督とは別に名物コーチが社には居た。「フジモッサン」だ。通称のように選手もOBも父兄もそう呼んでいてた。社高校の創部の頃に監督をされたことがあるらしい。名物コーチで誰も頭があがない。三浦監督でさえ野球経験がなかったり新任ということもあり当時はフジモッサンに頭が上がらないように見えた。
唯、私は高校時代から頑固な一面があったので、この主(ヌシ)のフジモッサンでさえ言い負かせた。と言うか、「勝手にせえ!お前みたいな。高校生のクセにワシの言う事を聞かん奴は初めてや!!」と何度か叱られた。しかし私は、持論を展開し説明した。「フジモッサンの仰ることは理解できます。しかし付け焼き刃でピッチャーになった私には時間がありません。時間があれば従います。しかしプラマイ私の思うようにさせて下さい。」と説得した。結果、コーチングは止まったが、私は毎日図解付きの日記を付けて分析し、定期的にフジモッサンに渡した。後にフジモトサンの理論が正しかったのをハッキリと実感したし、今もそう思う。

 

春になって試合が始まり。結果を出し始めるとフジモッサンはこう呟き始めました。「竹内、こいつは10年に一度出るか出ないかの逸材やな。」と。

そうこうしてる間に最後の夏の県大会に突入。5回戦まで私が一人で投げ抜き、8強入りを果たした。
大したこと無いと思われるかもしれないが、当時兵庫の夏大会は170校以上あり、上級生の優秀な選手たちがごそっと抜け、長年社を引張ってこられた監督も勇退され、残された私達は、学校サイドもOBも父兄も誰からも期待されていなかった。そして何より、兵庫県は、「夏の東洋」と言われた東洋大姫路はじめ報徳、育英、などの私立の強者揃い。彼等でさえ夏の大会は当時は毎回順位が入れ替わっていた。

 

このような状況の中で当時の新聞に「県立社高校、私立の強者を抑え三年連続の8強入りの快挙」と見出されたのは唯かの自慢では片づけられない。以上、私の自叙伝風な内容になってしまったが、本日優勝した我が母校社高校の自慢と思っいただきたい。

 

追記
この後、夏の県大会では、9度4強入りを果たすも決勝、そして優勝は初めてである。
18年前に春の選抜により初の甲子園出場をはたしている。
この当時の監督は私の同級生で森脇忠之監督、彼の弟はソフトバンクで王監督の下二軍監督や一軍スタッフとしてベンチ入りし、その後オリックス監督も務めた森脇浩司である。
同級生よしみで、選手の水泳コーチをしたり、メンタル面での指導を甲子園本番まで担当した。特に投手陣には「チャンスはピンチの顔をしてやって来る。だから、ピンチをそのままピンチと思ったらお前達の負けだ。試されるからピンチ(チャンス)だ。と思え!ピンチだろうがチャンスだろうが緊張する。だからチャンスと思って緊張のワクワクに没入しろ。」と言ったら緊張した面持ちでハイ!と素直に答えた坪井(後にプロ入り)を思い出す。

結局、度重なるピンチを乗り越えて初出場ながら、全国大会でベスト4になった。

最後に私の同級生の中で自身又は兄弟が顕著な活躍を見せた面々を紹介したい。

先程紹介した森脇忠之はショート三拍子揃った県下ナンバーワンとマスコミに騒がれた。
私とバッテリーを組んだキャッチャー宮田は三つ上の兄が社会人野球で全国優勝投手としてドラフトで阪神タイガースに入った。
ファースト大谷(高岸)は、私がプロテストに行った時に3回目の近鉄の時に連れて行ったら彼が合格した。因みに一回目は南海、二回目に阪神に行ったから、私も近鉄では最後まで残り、面接で「竹内君は阪神も行ってるみたいだが、近鉄に合格したら、近鉄に入ってくれますか。」と聞かれ、もちろんです。とまるで就職試験みたいだな。と思ったのを覚えでいる。

結局、私は合格出来なかった。連れて行った大谷が合格し、私は落ちたのだ。悔しかった。
この思いがきっかけで、当時日本で一番強い大学に入った。駒澤大学である。中畑氏や森繁和元中日監督はピッチャーでは私が一年の時の4年生。グランド兼寮に1人踏み入れて最初に話したのが森さん。
普通に「マネージャー室は何処ですか」と聞いただけなのに森さんが卒業されるまで、「竹内お前が初めてグランドにきて、マネージャー室はどこでっかー」とデカイ態度で飄々と一人で入ってきたから、『鳴呼花の応援団』から、抜け出てきたんか?と思ったぞ。とよくからかって最後まで可愛がって下さった。

又石毛宏典さんは一つ上花形選手だったが、キャラでは結構私も目立っていたから、石毛さんは花形選手であったが顔は愛嬌もあり、みんなから「百姓」とからかわれていて、実際に百姓の顔だった。そして私は光栄にも石毛弟と呼ばれていた。石毛さんには後にも色々お世話になったが、この人との思い出や人と形りを離せ場語り尽くせないほどリッパな人だ

最後に、在籍中に三度日本一になったから、当時恒例になっていた日米対抗野球では、江川、原、岡田など今思うと錚々たるメンバーが集まっていた。江川さんともよくキャッチボールしたし同じブルペンで投げ合った。練習試合では、原を三球三振に取ったこともある。当時はもちろん今ほど有名ではなかった。
周りに江川だの、慶応の堀場、駒大の大宮さん達がいたからだろう。

 

最後に、マッキンエナジーの代表としてこの話しを締めくくりたい。この話の冒頭辺りに阪神の近本を先輩に持つ福谷のプライド、潜在意識の影響力について書いた。
このブログを書きながら久しぶりに自分の人生を振り返える機会となった。そして思ったの私も自分で気が付いてないが、これまでの人生で経験した事や、出会った人達の影響を受けながら、それら一つ一つの出来事が、潜在意識に刻まれ、私のエネルギー源となり良い意味で私の限りない野望になっていると気付かされた。石毛さんや森さん。江川さん、原君(1学年下)、岡田(同級だから呼びすて)彼等に今でも、遅れを取ったが今でも負けないぞ!いつかビジネスで名を上げる。(古っ) 私の底力プライドになってるのかも知れない。
2019年アメリカ最大の農業エキスポに出展し、同年10月アメリカ最大の太陽光発電エキスポにも出展し
現在は、アメリカに現地法人を持ち、フランス、ドイツのビッグな会社と業務提携している。
もちろん日本では、ソーラーシェアリングでは当社は相当知名度が高いだろうと自負している。

株式会社マッキンエナジージャパン 代表取締役 竹内正明

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