私の幼少期、父との思いでサスティナブルな生活
2021/09/08
こんにちは
竹内です。
今は既に夜中の零時を過ぎたので、今夜のテーマは少し深い内容になりそうなので今夜書くのは私の子供の頃の生活が、今から思うとかなり持続可能な循環型社会であったことをご紹介したいと思います。
記憶がそれほど鮮明に残っているわけではないので、多分私の幼少期から小学校低学年の頃の記憶から話しますと、家の風呂は薪で沸かしていたし、台所にはかまどがあって山で取ってきた柴(山の木の枝等)をくべてかまどでご飯を炊いていました。竹の火吹きも覚えていますし、裏庭に井戸があって風呂の水も釣瓶(バケツ)で汲んでいました。又ヤギも鶏も飼っていて、私が赤ん坊から少し大きくなったころに母達がヤギの乳を搾っているのを見て私が一人でヤギの乳にしゃぶりつこうとしていたと話してくれました。確かに私もその記憶が有るのですが自分の記憶かそう聞かされた記憶は定かではありません。
本家は山も持っていましたから、父は山で切った丸太を下の道まで降ろすのに丸太にロープをくくって自分が先に走って下りながら丸太を引っ張って下りていたことを自慢していました。私も小さな丸太で練習させられました。私の説明が下手でなければこれがいかに危険か想像できると思います。父は加速する丸太に追いつかれないように瞬時に足の置き場を選んでまるで猿飛佐助のように跳ぶように切り株や岩や根などをかわしながら丸太を引っ張ります。危険は未だありましてもし後ろで丸太が木の切り株にドカーンど当たれば自分はそう衝撃で後ろに跳ね飛ばされます。ですからそれも計算して進路を取れなければならない。余程慣れていないとある意味命取りです。私も父から教わると友達に教えて競争していましたから、中学校の時に近くの山の頂上から体育の時間に誰が一番早く下まで降りるか。競争だ!となり絶対的な自信がありましたので、標高400m程の低い山でしたが、私は本当にあっという間に下山して。二番目が下りてくるまでかなり長い間待たされました。多分二番目が未だ三分の一あたりで、私は既に下山を完了していたと思います。
実は、今でも登山をすると同僚はもともとマラソン選手ですから登りは勝てないのですが、下りはダントツに私が有利になります。スキーと同じでへっぴり腰になり体重が後ろに移ると尻もちをつき易くなりますので少し前傾姿勢で小走りに場合によっては滑るようにステップします。さすがに肺活量が持たない時は休みますし、登りと違って下りでの転倒は大きなけがに繋がりますから、用心はしていますがやはり昔取った杵柄がありますのでかなり余裕です。
循環生活に話を戻します。父が市役所(役場)勤務で昔の市役所はとても忙しくていつも夜11時頃か12時を過ぎて帰ってきてましたから、姉も私も夜型(好都合の言い訳ですね)になってしましました。台風や災害時は必ず役場に勤務に行かなければならなかったので、怖い時に必ず父がいないので「母や姉、弟を守るのは僕しかいない。」と小学校3年生ぐらいでも先頭切って台風で飛ばされそうな窓を抑えていましたし、場合によっては台風の真っ最中に庭の木が倒れそうなのを木に登ってロープを括り付け固定したりしました。
この経験は私から不要な恐怖心を取り除くコツというか、きっかけになりました。良い模範ではないのですが、台風は家の中で怖い怖いと思ていると未だ小学生4年生頃ですからやはり怖かったのですが、外に出てみると何も怖くなかった。雨と風は強くても逆に気持ちよかった。
この教訓は、怖い怖いとちじこまっていると恐怖心は益々肥大します。勇気を持って外に出てみると即ち問題に立ち向かっていくと恐怖心は消えます。
またまた少し脱線、こんな小学生でしたから、自慢するわけではありませんが、小学校時代に耕運機を近所のおじさんが買って使っていたら朝4時でも目が覚めて乗せてくれ!と良くせがんでいました。ですから5年生の頃には普通に耕運機は使っていました。
耕運機の運転どころか小学校時代に父が車を買ったら運転の仕方を教えてくれ。と言って教えてもらって普通に乗っていました。(当時はオート三輪は今の軽トラ的に農作業に使っていたから近所の中学生でも運転していたようです。)
又結構危ない話をすると近くの悪ガキ(3歳年上)のお父さんは猟師でしたから時々鳥打用のライフル銃を持ちだしてきて私は小学生でしたが、ライフル銃を自由に使いこなしていました。ですからズウーッと大人になったら銃の免許を取るのが夢でした。
中学校1年でその悪ガキがどこで手に入れたのか本物の拳銃を持っていて二人でポケットに拳銃を入れて山に行き、練習をしていました。昔話といえどもこの辺の話になるとヤバそうですね。心配ご無用、私はヤクザ会とは全く縁もありません。それどころか駒沢大学で野球をやっていましたから、卒業後行きたかったプロ野球団から誘いもなかったので、警視庁に入るべく試験勉強もして試験も受けましたし、警察学校の案内も受けました。結局行きませんでしたが。
この辺の話の締めくくりとしてもう一度父の話に戻すと、ボーイスカウトが日本に入ってきたころ父自ら初代隊長になり役場でボーイスカウト立ち上げ担当者となり当時としてはかなり本格的なボーイスカウト活動をしました。テントを張ってのキャンプは毎月行っていたように思うし、軍隊さながらの夜間ハイク(夕方6時から翌朝8時ごろまで)を小学校時代に経験しました。
他にもロープの結び方、人命救助方法(人工呼吸法、担架の作成)他にもまるで今、本屋で見るサバイバル方法等は全て小学校時代に経験しました。こんなに本気で指導してくれたので父に育てられたスカウト達が後に数名市役所に入り、父の部下になりました。
そんな経験が認めれれて、地元の職業消防署の初代署長に抜擢されました。
約6年程署長をして、退職後もボランティアでクリスチャンとて東京で約2年奉仕して、その関係で出来た友人たちとニュージーランド、オーストラリア、アメリカ横断等、又母や友人と日本の北アルプスの有名な山々や富士山、北は北海道の大雪山から南は屋久島まで行ったと後で聞き、今から思うと羨ましい(ご存知の通り私の現代の趣味は登山や海外)程たくさんの山にも登り海外も行っています。
今日は父の話で長くなりましたが、最近まで元気でピンシャンでしたが2年前にガンが発症し、昨年勇気を出して手術に挑戦しましたが、手術後1年生き永らえ、今年1月に偉大な生涯を閉じました。高潔で、子供のように正直で立派な人でした。
テレビで見るような賄賂等決して受け取らない人で市役所時代でも常に大きな役職についていましたから建設課時代は、時々家に贈り物が届いても決して開けるな!と言って数日後に家からなくなっていました。子供たちはこれぐらいなあー。と言っても絶対に手を付けない人でした。
性格が颯爽としていたから、何歳になっても女性にもてる人でした。それでも私が知る限りでは一切浮気などしない人でした。彼の生き方そのものが映画になるような人でした。最後に抱きしめてあげたかったですが、駄目でした。長島さんじゃないですが「父の魂は永遠に不滅です」と信じています。
夜中に走り書きしたから、文脈など次回に整えるヵ所も出ると思います。
今夜はこの辺にして、
続きを書こうと思いましたが、テーマを変えて「私の幼少期での父との思い出」にしました。
亡くなる1年程前まで父は会社役員としてマッキンエナジージャパンに名を連ねていましたが、本当にコツコツと仕事をしてくれる人でしたから、また何歳になっても新しい事に取りくむ人でしたから仕事上の申請(経産省への申請や、電力会社への申請をパソコンで)もやってくれていました。それでも既に90才でしたから出来ない箇所があり、「無理しなくていいから」と言って若干私の顔が落胆しているように見えたのか。「もう少し時間をくれたら出来るんや。」と言って悔しそうに言うからまたお願いして、出来たらうれしそうにしていました。このように何歳になっても自分が出来ないことを悔しがる人でした。
ですから、二年後に亡くなりましたが人は90まで生きたら充分や。というけれどついこの間まで姿は老人(老人と書きましたが、見た目もシワと白髪が多いだけで姿勢も思考もしゃんとしていて活気がありました。)でも心は永遠に青年でしたから残念でした。
しかし、もちろんもっと早く世を去る人の方が多いのですからそう望むのも贅沢であるのも解ります。人間の魂にはそれぞれ経験すべき生があります。キリスト教では前世、現生、後世の生があり、現生は魂(霊)が生身の肉体を纏い肉体があるが故の試し(誘惑)の期間であると言われています。要するに肉体が障りとなり魂に気付き(悟り)を与えやすくなる。と言われています。確かに例えば結婚式では「生涯この人を幸せにすると誓います」と言ってその気満々でも実際に過酷な労働環境であっても耐えて家族のために辞めづに働き続けるだろうか。又妻が年を取り身の回りに無頓着になり口を開けば自分に小言を言う毎日で、会社に言ったら若くて素直な女性が居たらそれでも全てを許して妻を愛し続けられるだろうか。等を考えると確かに肉体は障りであり試しであると思います。
今回はこの辺で失礼します。またお願い致します。
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